暇と退屈の倫理学 / 國分功一郎

やりがい、生きがい、好きなこと。
それらの何かに熱中している人間を、羨ましい、と退屈している私は思う。
だからこそ思うのだ。
なにか、どこかにあるであろう、本来自分が熱中すべき出来事を見つければ、私も幸せになれるのだと。

みたいなムーブに対して本の角で殴りかかってくるような本。
2年前、私がクッソ退屈していた(Vampire the MasqueradeのPCで永劫の退屈に飽き飽きしているヴァンパイアムーブができそうなくらいに暇してた)時に手に取ったので、面白かった。

以下、本を読んでいた時に取ったメモ。

使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むのは素晴らしい。素晴らしいのは幸福である。では、その逆で、打ち込むことがない人は果たして不幸なのだろうか?また、使命感に燃えた人たちの革命によって、何かが成し遂げられ終わると、人はやることがなくなって暇になる。これも不幸なのか?
本当に、熱意を持たないものは不幸なのだろうか。ブラック企業がいうような、生きがい、やりがいで一生懸命に働くことこそが幸福か?
そうではない。不幸に憧れてはならない。
生産によって充足されるべき欲望が作り出される。
19世紀の初めには、自分が欲しいものを広告屋に教えてもらう必要のあるものはいなかったであろう。

現代人は自分が何をしたいのかはっきり意識できなくなってきている。メディアなどによって欲望を言葉・イメージで明確化させられて初めて、それらがはっきりしてくる。いわば「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と教えてもらっている状態。
需要があって供給があると思われているが、供給する側が先で、「これが欲しいでしょ?これがあると素敵じゃない?便利じゃない?」と言われて初めて、「あ!欲しい!」と需要が後から追いついてきている。消費者の感性そのものがあらかじめ制作側に先取りされている。
豊かさを得ても人は自発的に何をしたいのか、はっきりとはわかってない。そこにつけ込まれているのだ。
暇=客観的なもの(スケジュールの空いた時間、休暇など)
退屈=主観的な感想(退屈な授業、など、やることはあるのに退屈を感じる個人の主観)
社会において、労働者の労働力が搾取されているかと思いきや、労働者の暇が搾取されている。
なぜ暇が搾取の対象になるかというと、そもそも人は「退屈を嫌う」からだ。大半の人間はやりたいこともはっきりせず、暇の潰し方がわからないので退屈になる。
だから与えられたもので暇を潰して楽しみ、用意された快楽に身を委ねる。(退屈であるよりずっと素晴らしい!)
浪費:必要を超えてものを受け取ること。(お腹いっぱいにご馳走を食べる!など、どこかで限界に達する物理的なこと)
消費:ものに付随する概念を受け取ること。(ガチャを回す、流行りのアイテムを買う)

ボードリヤールは、消費される概念として「個性」に注目している。
すなわち、「個性」とかいうものが、消費によって「個性的」になるようになることを求められている。問題は、この「個性」というものが一体なんであるか、誰もはっきりわかっていないことだ。したがっていくら消費しても「個性」という概念は完成されない。常に失敗し続ける、終わりのない消費行動である。こういった概念の消費には限界がないから、延々とそれを繰り返される。その上、満足をもたらさない。消費が過剰になればなるほど慣れていく。
消費のトレッドミル、快楽の踏み車。
ウィリアム・モリスは次の懸念があった。
革命が成功し、労働は減り、余裕を得た私たちはどこへ向かうのだろうか?
→現在:文明産業に余裕(労働者の暇)が搾取されている。

自由と余裕を得たあとは、その生活をどう飾るかだ。人々が暇を得た生活の中では、その生活を芸術的に飾ることができる。それがモリスの言う「豊かな社会」のあり方だ。

筆者曰く、
「人はパンがなければ生きてはいけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちは、パンだけではなくバラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」

さわりを書くと、こんな感じの本でした。

何かに「熱意」を持って「打ち込む」こと、
何かを「得る」ために「消費」し、満足を得ようとすることは、
全て素晴らしく幸福のように見えるが、そのように「本来自分はこうあるべき」と誰かの手で明確化されたデザインによって「その本来性へと回帰したい」という欲望が生まれ、疎外感が生まれ、満たされない何かが生まれる。
そのような、漠然とした不幸に陥ってはいないか?

そこから色々考察をしていって、筆者が結論を出すまでの流れが面白かった。

もともとミニマリストっぽいことをしていた時に、あらゆる家事を効率的にしすぎた上にやりたいこともなく、仕事の時間も減らし、結果、毎日暇で暇で退屈で仕方なかった時にこの本を手に取りまして本の「別になんかの熱意に隷属しないと幸福じゃないのとは違うんじゃない?」と言う最初のメッセージは目から鱗でした。そうだ、確かに夢があってワクワクしながら夢を追えている人は羨ましいと思っていた。あと、暇の潰し方をロクに知らない。散歩のシーズンじゃないと、読書かソシャゲばっかりやってしまう。なるほどなあ、と思いながら、繰り返し読める本でした。

個人的にはこの本、ウィリアム・モリスがいっぱい出てきてちょっとテンション上がりました。ウィリアム・モリス先生…!開催される展示会という展示会で、悲しい三角関係を暴露され続けている人!(そういう認識)

部屋が汚い時には「役に立たないものや美しいとは思わないものを、家に置いてはならない」というモリスの言葉とともに戦い、
小さい頃から特に夢という夢がなくて、強いていうなら毎日平穏で規則正しい生活を送りたい…でもそんなの生き甲斐って言えるんだろうか…という悩みに悩みすぎてしまった時は「生活と芸術はセットでええやろ!そんな生活を彩ったれ!」というモリスの言葉に励まされ(そんなことはいってない)、
この本を読んで、さすがモリス先生!カッケーっす!って改めて感じました。あと、ソロー。(森の生活は伊達じゃねえな)


本を読み返すに当たってマインドマップを使ってみたんだけど、思った以上に賢そうに見える!(欺瞞)